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140日目

  • 執筆者の写真: 筆者
    筆者
  • 2022年9月12日
  • 読了時間: 5分

更新日:2022年10月11日

  • 私は6:00頃起床。昨夜は1:00頃就寝。

  • 奈津子は5:00頃起床。昨夜は21:00頃に鎮痛剤を服用し就寝。1:00頃、トイレに起きた。3:00頃、目が覚めてホットパックをもらった。質良く眠れたようで、朝の表情も悪くない。

  • 今日は、午前、午後に理学療法、午後に作業療法が設定された。

  • 理学療法では、涼しいうちに歩こうということで、電極を付けて屋外の歩行からスタートした。ストレッチポールを使った体幹強化をしたが、今日は初めて、ストレッチポールに上体を預けた状態で、両足を90度程度に屈曲させて床に付けた状態から、右足だけを持ち上げ、右腿を垂直付近まで引き寄せることが出来たそうだ。これまで、自力では右足を持ち上げるとバランスを崩してしまっていたが、崩すことなく今日は持ち上げることが出来た。仰向けになりマッサージを受けた時、右腕を伸ばした状態で腰の辺りから持ち上げる動作をした。最近は、肩と腕の痛みが伴うので、この動作を1か月間以上控えていたが、久しぶりに理学療法士に持ち上げてもらったところ、70度程度まで持ち上げることが出来たらしい。ただ、4回程度繰り返したところで痛みがあったため、そこで止めたそうだ。バランスボールで体幹強化し、装具を外して前進、後進の歩行訓練をし、階段を含めた院内の歩行コースを歩き、最後に肩のマッサージを受けた。時間があったので、毎分44回転で13分間ペダリングした。

  • 午後に再開した理学療法では、車のアクセルとブレーキを想定して、小さなボールを右足で踏んだり、転がしたりする練習をした。横歩きと膝を屈めて歩く練習をした。腿上げした後、身体を前傾させて倒れないように粘ってから右足を一歩出す練習をした。

  • 作業療法では、「痛み日記」のタイピング、コインを使った訓練の後、紐の三つ編みや、あやとりをして、指先の感覚を養った。最後に肩の可動域を確認するために、高さや距離を変えて、コインを置く訓練をした。

  • 足や手腕を持ち上げる動作の訓練を積極的にし始める段階に入ったのだと思う。慢性化していた肩、腕の痛みや緊張も、距離感を図りながら付き合えるようになってきたのかもしれない。


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  • 私と兄は、年齢が丁度10歳離れている。二人兄弟で現在、私は50歳、兄は60歳。二人とも、いい年をしたオジサンである。

  • 出来のいい兄で、幼少のころから、弟である私は兄とよく比較された。「どうして、お前は本を読まないんだ」「どうして勉強しないんだ」と。私は少し物心を覚えるのが遅かったし、ずっと軽くアホな子だったと思う。「あんたたちは、ちゃんと読み聞かせとか、字を書く訓練とか教育してくれたの?」と当時は思っていた。小学校に入る前から入院をしていたり、学校を休みがちだったり、そういったことも少なからず影響はしていると思う。

  • 共に昭和10年生まれの両親に育てられた私たちは、私が物心ついてから、それほど長く一緒に暮らしていない。私が小学校の3年に上がる春、兄は大学進学のため郷里を離れ、家を出た。一緒に暮らしていた頃は、やりたくない子守を両親から言いつけられ、当時の兄にとって弟の私は、面倒な存在だったと思う。「お腹がすいた」と私が言うと、何もないので、ジャガイモをスライサーにかけてポテチを作ってくれたことがあった。私が小学校に上がってからは、受験生だった兄は自室にこもって多分勉強していたので、あまり会話らしい会話はしてなかったと思う。そもそも、二人とも父からそれぞれ説教されることは多かったと思うが、家族同士で話し合ったり、気持ちを伝え合ったりするようなことが殆どない家庭だったような気がする。

  • 兄には、昔から頑固なところがあった。私が多分4歳か5歳くらいの頃、朝、保育所に預けられる際、私は兄の通学用の自転車に二人乗りで連れて行かれた。経緯は全く覚えていない。普段は両親のいずれかに徒歩で連れて行かれていたのだと思う。自転車に乗った私は、兄の自転車の後輪のギアとチェーンの間に右足を挟んでケガをした。私は「待って、痛い」と言っていたが、兄はチェーンが外れるまで止まらなかった。病院で治療してもらった後、「俺も悪かったけど、何も言わないお前も悪いんだからな」「えー、ちゃんと言ったよ、痛いって」「言ってない」と理不尽なやり取りをしたことを覚えている。9歳ぐらいの頃、「今度、帰省した時はプラモデルで一緒に遊ぼう」という約束をしていたが、次に帰省した際「いや、そんな約束はしてない」と兄は自信満々で言っていた。「こいつ、便利な脳みそをしているな」と当時の私は思ったものだ。

  • 勉強が出来た兄は、大学院に進み、自動車メーカーに就職した。20年ほど前に転職してから3、4年に一度のペースで転職を繰り返した。外資の材料メーカーなど、いずれも高給が得られる会社だったと思う。4か所目くらいから面倒になった私は会社の名前も、仕事の内容も聞かなくなった。ただ、やたら海外出張に出かけていたので、どこにいつまで行っているのかだけは、聞いて覚えるようにはしていた。それも「北米に来月半ばまで」とかザックリした覚え方だった。私のいい加減なところだ。

  • コロナ渦以前は、年に2、3回帰省していた。6年ほど前、兄は帰省のたびに毎回会っていた幼馴染の親友を、病気で亡くしている。「一緒に泣いた」と母は言っていた。

  • 兄は馬鹿ではない、聡明な人間である。読書家で、絵画鑑賞なども好む。学生の頃の私の様に、囲碁や麻雀などの勝負事に現を抜かすタイプでもない。毎年おせちを手配してくれたり、実家や母のことも心配してくれたりもする。

  • ただ、この10年ほどで、兄は少し変わったような気がする。そして、今回の帰省の件。映画、寅さんの「さくら」のように「兄さんの薄情者」と罵れたらいくらか楽なのかもしれないが、そう切って捨てるには不可思議に過ぎた。「何をどう言ったらいいのやら」と考える時間も無いので放置していたというのが実情だ。続きは、後日に譲ろうと思う。

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自主トレ映像

奈津子の朝昼晩ご飯


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